FIREを目指すなかで 「資産が十分でも、FIREで年収を手放すのが辛い」と考える人もいます。
僕自身、FIRE前は「せっかく長年の努力で築いた年収を自ら捨てて本当にいいのだろうか?」と、言葉にしづらい不安感を覚える時期がありました。
それこそサラリーマン脳に支配されていたと、FIRE後に実感します。
今日はその正体について、自分なりの経験から振り返りたいと思います。
年収を失うことがなぜ引っかかるのか
年収は生活費や投資のための数字である以上に、社会の中での立ち位置を示す非常に分かりやすい「他者評価軸」でした。
現役時代は、「年収=自分のスキル・経験・実績への市場評価」と捉えていました。
とはいえ仕事には理不尽や不運もつきもので、それでも腐らずに努力して年収を少しでもあげれば「傷がいっぱいついた勲章」とも感じます。
数字という意味以上に、「年収=自分自身の努力の結晶」という捉え方がそこにはあります。
それゆえ、年収を手放すことは、数字以上に「自分自身を失うような喪失感となるのでは」という不安がつきまといます。
僕が気づいた違和感の正体
FIRE後、そうした不安の正体が何であるか、ようやく見えてきました。
それは、年収(自分自身の努力の結晶)を一次評価するのは「外部(会社であり資本主義社会)」です。
そのうえで「自分の年収は努力の結晶だ」と、自分の年収を自分で二次評価をしても、結局、そんな「自分の判断」も他者評価の上での判断です。
つまり、他者評価軸という構造からは抜け出ません。
幾ら年収をもって「社会で通用する」とか「社会で認められている」と信じたり、それをもって自分の役割や居場所(=自己アイデンティティー)となっても、会社を辞めればそんなモノは喪失するわけです。
年収という数値で自分の存在価値を生涯正当化し続けることは不可能です。
どこかの時点で、そんなサラリーマン的な思考支配から抜け出ないとだめだなのです。
資産は年収を代替できるのか
するとこうも考えます。
「現役時代の年収の積み上げ=資産なら、そんな資産は年収の果たす役割を代替できるのでは?」
でも、残念ながら最終的な僕の回答は「質が違う」というものです。
年収はそれに連動する肩書や職種があり、社会の中でのアイデンティーティーとして明白です。
一方で、資産は外からわからなければ、日々、誰かに誇示するものでもありません。
なので、年収(あるいはそれと深く関連する肩書や職種)が自己アイデンティティーの支えだった現役時代に対し、リタイア生活での資産は、より静かに自分のなかで「資産=自分の自由を実現する資源」という役割を発揮するようになります。
具体的には、
・今日は何もしない
・やってみて合わなければやめる
・成果が出なくても引き返す
といった選択肢(=自由)を支えるものは、その資産だからです。
終わりに
資産が十分あっても、「FIREで年収を手放すのが辛い」と感じてしまうのは、「お金の問題」ではなく、「アイデンティティーの置き場所」の問題も大きいのです。
他者評価に委ねてきた時間が長いほど、その評価軸を降りるときには必ず調整期間が生まれます。
それは間違いでも失敗でもなく、お金(年収)という社会的な承認を、お金(資産)という人生の自由に変換していく必要なプロセスで、程度の差はあれ、誰にでも起こると思っています。
年収を手放すとは価値を失うことではなく、資産を活用して価値の置き場所を自分の手に戻すことへの始まりだ・・と、捉えるようになりました。
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