アーリーリタイアから4年。ふとサラリーマン時代を振り返ると、「あの頃の承認欲求と、いまの承認欲求はまったく別物だ」と実感します。
会社員当時は、大きな仕事を任されれば「認められた」と感じ、評価が振るわなければ「認められていない、自分はイケてない」と感じていました。
これはサラリーマン基準の承認欲求に自分は支配されていたからです。
それゆえFIRE後は、冷静に、「会社員としての承認は、不必要なほど自分の人格と結び付けていた」と気づきます。
今日は、そんな承認欲求の罠について綴ります。
サラリーマン時代の承認は「機能評価」だった
会社員としての評価は、業務遂行能力にかかっています。
成果を出せば評価され、そしてチャンスが巡ってきます。
そのチャンスも、「こいつに任しておけばきちんと結果を出すだろう」という視点から来るもので、「こいつは性格が良い奴だから」なんて人格側面はさほど関係しません。
そんな構造の中にいると「評価される=自分が肯定された」と感じてしまいがちですが、実態は、「会社にとって役立つかどうか」という機能評価に過ぎません。
高評価は人格の賞賛ではなく、業務遂行力への称賛であって、それと「人格」はまるで別です。
ただ、働いている最中はその境界が曖昧で、「承認=自己価値」と無意識に結びつけてしまうのです。
加えて、僕は家族を持っていましたが、自分で勝手に「家族からの承認≒サラリーマンとしての成功」と考えていました。
つまり、家庭での承認を含め、実は「サラリーマンの業務遂行力」という機能(能力)に大きく左右されがちだったと言えます。
FIRE後に見える「人格」と「能力」の分離
会社を辞めると、役職も肩書きも業務スキルも、いったんリセットされます。
そこでようやく、「サラリーマン時代の承認の大半は人格とは無関係だった」と実感してきます。
また、リタイア生活で僕が受け取る承認は種類が違います。
老齢の母からすると「頼りになる」とか、友人からすれば「一緒にいて楽しい」、「考え方がユニークだ」・・そんな面を中心に関係が作られるので、サラリーマンの頃のような機能(能力)ではなく、僕自身の対人スタンスや人格に向けられます。
そんな当たり前の事も、サラリーマンの頃には気づきずらく、そしてFIRE後は驚くほどクリアになります。
承認は“量”ではなく“質”で決まる
また、会社では広い範囲からの承認を求めがちです。
上司、同僚、部門、顧客、取引先・・とにかく関わる全方位、認められるほど価値が上がると捉えます。
しかしFIRE後、自分に必要な承認は、少数の深い関係から得られれば十分というものです。
終わりに
こうしてFIREをして、ようやく人間関係から得る承認構造が変わってくると、「会社員時代の承認欲求は、評価と人格の区別をしていなかった」といった罠に気がつきます。
そんな気づきから、僕がサラリーマンの方に伝えたいのは、
・会社が自分を認めないとしても自分の人格まで過剰に否定する必要はない
・会社が認めてくれたからといって人格が優れていると奢るのは行き過ぎだ
ということです。
サラリーマン生活はこの「当たり前の事実」が見えにくいものです。
また、会社組織の中には能力的にできないことを、人格的に劣ってるかの攻撃的な言動をする人もいますが、真に受ける必要もありません。
こうした当たり前のことを、FIRE後にクリアに実感できるのは、FIREのメリットの1つだと言えます。
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