FIRE後の生活を、「人生の消化試合だ」と感じる人は少なくないと思います。
働く必要がなくなり、資本主義のルールに従って我慢を強いられる日々からも解放される。勝敗はすでに決していて、あとは無理をせず、のんびり時間をやり過ごすだけ・・。
そんな感覚を持つのは、とても自然なことです。
実際、僕自身もFIRE直後に訪れた強烈な解放感のなかで、「このまま消化試合に入ったのかな」と思っていました。
今日は、FIRE生活を人生の消化試合だと思いこむことの「落とし穴」について綴ります。
誰もが消化試合だと思ってしまう理由
FIRE直後に感じる解放感の源泉は大きく3つあります。
①時間からの解放
②評価からの解放
③責任(役割)からの解放
勤務時間というスケジュールはなくなり、誰かに評価されることもなく、仕事上の役割を演じ続ける必要もありません。
長くサラリーマンをやってきた人ほどこの変化は強烈です。
すると自然に、「もう勝負は終わった」、「あとは消化試合だ」という発想が浮かびます。
これは、ごく自然な反応だと思います。
消化試合をどう過ごすか、という発想
当時の僕も、「さて、この消化試合をどう過ごそうか」と考えていました。
サラリーマン時代に思い描いていた「リタイア後にやりたいこと」は、焦らずじっくり取り組めばいい。どうせ労働に戻ることはないのだから、時間はいくらでもある。
これは、勝敗が決した試合の残りの回を、野球選手が「無理に走らず流そう」と考えたり、
あるいは勝敗とは関係なく、自分にとって大事な記録を伸ばそうとする姿に近い感覚です。
でも今振り返ると、この考え方そのものが、とてもサラリーマン的だったと感じます。
人生を一本の試合とみなし、FIREはその終盤戦にすぎない、という前提に立っていたからです。
消化試合という言葉への違和感
時間が経つにつれて僕は違和感を抱きました。
確かに消化試合のような解放感のなかで日々を過ごしていたのですが、「この判断に、このまま留まっていていいのか?」という感覚がふと湧いてきたからです。
解放感を過ぎた後の余裕からか、フィールドから空を見上げて「こんなに青かったのか」と感じたり、観客席のざわめきに耳を澄ませたり、足元の土の匂いや、芝生の踏み心地に気づいたりといった5感が働きだしたからだと思います。
それが「消化試合だと決めてしまっているのは自分自身だ」と、そんな落し穴に気付きました。
消化試合だと思いこませていたもの
この違和感の正体は、「人生は同じ競技を最後まで続けるものだ」という思い込みです。
サラリーマンという競技をすでに降りているのに、なぜかそのフィールドから出ず、消化試合として居続けようとしていたわけです。
それは、自分で自分にかけていた見えない縛りだったのだと思います。
消化試合に例えるなら、試合を続けてもいいし、選手交代をしてベンチに下がってもいい。さっさとシャワーを浴びて球場を出て、街に繰り出してもいいし、旅に出てもいい。
フィールドだけがすべてではなく、他の選択肢を選べる状態にある。
その自由に気づくことこそが大事だと思います。
終わりに
だからといって、欲を持たず、あるがままを受け入れ、静かにフィールドで消化試合を楽しむというFIREを否定するつもりはありません。それもまた1つの完成形です。
ただ、もしどこかで引っかかりを感じたなら、「消化試合だと決めつけていないか」と立ち止まって周囲をみると、それだけで見える景色は少し変わります。
FIREとは、消化試合をどうこなすかだけではなく、フィールドの外にも世界があって、どんな場所に立ち、どんな競技をしたいか、それを選ぶ自由があると気づくことから始まる気がします。
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