世間でよく「都会の人は冷たい」という評価があります。
今日はこの点について、先日のあるエピソードをもとに感じたことを綴ります。
都会生活は孤独になりそうだと感じている人への一つの視点でもあります。
日曜夜の都会で見た一場面
ある日、夜10時ごろ、普段は帰路を急ぐサラリーマンで少し混みあう歩道を歩いていると、とても静かで空いているのがわかりました。
都会とはいえ、日曜日の夜ということもあり、街も早く寝静まっている感じの静けさがありました。
すると、前方から、若い男の子が車椅子を押して歩いてきました。
少し距離が近くなると、押しているのは中学生後半から高校生くらいの、ジャージをきた少しやんちゃ風の若い男の子だとわかりました。
更に近くになると、車椅子に乗っているのはお婆さんではなく、40代後半から50代くらいの女性だというのもわかってきました。
想像したこと
そんな珍しい状況をみて、とっさに想像してしまいました。
もしかすると病気のお母さんを、息子が外に連れ出しているのかもしれない。
あるいは、足を怪我して一時的に車椅子生活をしているだけで、お菓子でも食べたいとスーパーに向かっているだけかもしれない。
ただ、真横を通り過ぎるときも2人は特に会話もなく淡々と前に進んでいて、その無言さがかえって、「残された命の短いお母さんを、息子さんが連れ出しているのかもしれない・・」とさえ思ってしまいました。
もちろん、実際の事情は分かりませんし、分からなくていいことでもあります。
声をかけないことが自然な環境
親子と僕がすれ違った歩道は、とても広く、段差もなく、車椅子の移動に支障はありません。まさに都会のバリアフリーを意識した設計なのでしょう。
もしこれが田舎などで、段差があったり通行が大変だったりなら、僕は声をかけていたと思います。せいぜい「息子さんですか?」とか「寒くなってきましたね」ぐらいの会話かもしれません。
でも、そんなサポートするきっかけもない都会では、相手が困っていない限り、基本的には話しかけたり、踏み込んだりもしません。
それは無関心というより、用もないのに声をかける行動が「変な人」と勘違いされやすいからです。
都会では、助け合いが必要な場面と、そうでない場面の線引きが比較的はっきりしています。
都会の人は冷たいのか?
こう考えると、世間で言われる「都会の人は冷たい」という評価は、人の性質というより、こうした構造の違いから生まれているのではないでしょうか。
実際、都会だろうが田舎だろうが、冷たい人は冷たいし、暖かい人は暖かい。そんな人間性や比率なんて変わらないと思います。
ただ単に、声をかけなければ生活が回らない場面が多い田舎と、声をかけなくても何事も成立する都会の構造的な違いというものです。
その結果、田舎では人の温かさが見えやすく、都会では見えにくいとなっている気がします。
終わり
あの夜にすれ違った2人は、横を通り過ぎただけの僕がまさかいろいろ想像をしていたなんて、知る由もありません。もちろん僕も、その2人が親子なのかすら知る由もありません。
ただ、都会では「誰かを助けたい」とか「気にかけてあげたい」という気持ちがあっても、出番がないまま通り過ぎることがあります。
それを「冷たい」と切り取るのは少し違うわけで、都会の人の多くは、必要があれば動くし、不要なら踏み込まないだけのことだと思います。
それが良いのかどうかは、なんとも言えません。
もし、最後の親孝行をしている息子さんだったのなら、応援する声すら届けられない都会というのは、とても残念で寂しいものです。
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