世間では、「FIREは暇だ」といった批判を耳にします。
けれど、「FIREは退屈だ」という表現は、あまり聞かない気がします。
なぜ「暇」と言われても「退屈」とは言われないのか?
この違いを掘り下げると、FIREという生き方を外から見た印象と、内側から実感する世界のあいだにある、大きなギャップが見えてきます。
今日は、世間のFIRE批判を手がかりに、「FIREは暇」と批判される理由、そして僕の見解を綴ります。
外から見るFIRE=暇
FIRE生活と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、「働かない」、「時間に縛られない」、「昼まで寝ている」といった姿でしょう。
確かに、通勤も会議も報告もない生活は、サラリーマンの目には「暇そう」に映ります。
つまり、「FIREは暇」という批判は、外から見た印象にすぎません。
働く側からすれば、日常のルールから外れた人の姿が「何もしていない」と見えるのです。
でもそれは「サラリーマンの日常から想像できない世界」なだけで、つまりはFIREを経験していない人の「観察的批判」でしかありません。
内から見るFIRE=退屈ではない
一方で、FIRE実践者にとって、自由な時間が「退屈」と感じることは少ないと思います。
なぜなら、仕事をしなくてもよく、評価や成果に縛られず、人格や働き方を批判されることもなく、他人の価値観にさらされないという静かな公平さの中で暮らしているからです。
たとえ刺激が少なくても、心が静かで満ち足りているわけで、仕事や職場環境がキツかった人ほど、その思いは大きいはずです。
外から見れば「何もしていない」ようでも、本人にとっては意味のある時間なのです。
「暇」は外からの観察であり、「退屈ではない」は内側の実感なわけです。
FIREを経験していないと、この内的な充足が想像できず「退屈」というより「暇」と表現するのでしょう。
終わりに
僕が「FIREは暇」という批判が嫌なのは、FIREを実体験もないまま「見た目や思い込みで暇と語る不誠実さ」にあります。
しかも「FIREは暇だ」と大きな声をあげて批判する人に限って、
「〇億円なければFIREは暇でしょうがない」と極端にお金に頼ったり、
「遊んでもいずれ飽きてFIREは暇になる」と極端に厭世的だったり、
「FIREしても暇ばかりでノイローゼになる」と時間の問題にしたり、
どこか他責というか他力本願だったりします。
本当の問題は、「お金や時間」ではなく「自分で時間に意味を見いだす力」に他ならないのに。
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