FIREから3年半、ずっと「サラリーマンに戻れない」と感じています。
ただ、その「戻れない」という感情も、FIREから1年目、2年目、3年目で微妙に違います。
今日は、その変化について綴ります。
1年目:「習慣の自由」が生んだ解放感
FIRE直後の1年目は、とにかく会社を辞めた解放感による「習慣の自由」に浸っていました。
いつまでも寝ていられる、好きな時に好きなことができる、「誰にも縛られない」という生活リズムそのものが、サラリーマン時代にはなかった心地よい解放感でした。
この時期の「働きたくない」は、サラリーマン的な生活習慣からの反動です。
長年「決められたスケジュール」に従って起きて出勤する、そんな「決まった習慣」が拘束の象徴でした。
それゆえ、FIRE後は「あの習慣に再び身を置けと言われても無理」という感覚で「サラリーマン には戻れない」になりました。
2年目:自分のために100%使う時間の贅沢
2年目になると、時間を自分のために使い切る感覚が芽生えます。
新しい趣味を始めたり、旅行、学び直し、健康維持のスポーツなど、サラリーマン時代に後回しにしていたことに没頭する時間が増えました。
この時期は「時間もお金も、自分のために100%注げる贅沢」を実感します。
一方で、会社員時代の9割は「成果を得るための忍耐と調整だった」と改めて気づきます。
たった1割の達成感のために貴重な9割の時間を社内外ですり減らすのは「人生を無駄にしている」と非合理に思えました。
サラリーマン経験は人生で一定量は必要ですが、それもお金と同じで、多ければ多いほど良いとうものでもありません。
それゆえ、1年目の本能的な「嫌」から、2年目は理性的で合理的な「嫌」になりました。
3年目:退屈と再就職は釣り合わない
3年目に入ると、FIRE生活の過ごし方にも安定感が出てきます。
それは良い反面、「FIRE生活は暇ではないけれど、その日々ルーティンがどこか退屈」という感覚が出てきます。
ただ、退屈を感じたとしても「サラリーマンに戻るぞ」なんて選択肢は一度も思い浮かびませんでした。
なぜなら退屈は「使い方」の問題であって「生き方」の問題ではないからです。
退屈な時間を埋めるため働くとなると、「働くことで得られる刺激<働くことで失う自由」と、ロスがはるかに大きいからです。
それゆえ、退屈時間は創意工夫で埋めるべきで、会社員という構造に戻って埋めるのは、そのトレードオフ的にもあり得ません。
こうして「サラリーマンには決して戻れない」と思ってしまうのです。
退屈を埋めるのは「再雇用」ではなく「自由投資」
なお、3年目以降の「退屈」を埋める手段として、僕は「自由投資予算」を設けました。
自分の興味あることやサラリーマンの頃にはやらなかったことをあえてやる「自由に投資できる予算」を設け、退屈という時間を「探究」や「冒険」の時間に変えました。
そもそも「退屈したら社会復帰だ」と短絡的に発想するとしたら、それはサラリーマン脳に支配された状態に思えます。
自由を得たなら、自由に発想しても良いと感じています。
終わりに
この3年間で、「サラリーマンに戻れない」は一貫していますが、その裏にある感覚は変化しています。
1年目は反動としての自由、
2年目は効率としての自由、
3年目は創造としての自由。
その過程で常に「サラリーマンには戻れない」と思いましたが、それは「サラリーマン人生に価値がなかった」という意味ではありません。
むしろその経験があったからこそ、自由の重みと可能性を実感できるものです。
そんな「自由が熟していく」という3年間でした。
結論、「サラリーマンに戻れない」は拒絶ではなく、違う生き方への「自然な変遷」と思います。
ランキングも参加してます。参考や気づきになりましたらポチっとお願いします。

