サラリーマン時代とFIRE後では、「自由の感じ方」が大きく異なります。
ただ、それを言語化するのは長い間容易ではありませんでした。
ところが、ある秋晴れの昼下がり、近所の公園で紅葉を眺めたとき、微妙な違いがはっきり見えてきました。
今日は、サラリーマン時代とFIRE後の自由の捉え方の違いについて綴ります。
きっかけ(体験エピソード)
11月にしては暖かい日、平日で公園は人もまばらでした。サラリーマンは仕事中で、僕のようにふらっと自由に遊びに来られる人は少ないわけです。
赤く染まり始めた葉を青空の下で眺めながら、こう思いました。
「こんな綺麗な紅葉が広がる世界にいるんだな」
その時、サラリーマン時代なら、きっとこう言っていたと気づきました。
「こんな綺麗な紅葉が広がる世界もあるんだな」
1文字の違いですが、「自由の立ち位置の違い」があると思ったのです。
リタイア後は自由が「内側」にあり、日常の一部として体感できます。
サラリーマン時代は自由が「外側」にあり、非日常として訪れるだけです。
サラリーマンにとって自由は「回復の時間」
サラリーマン時代の自由時間は、仕事の疲労や拘束から回復や解放を得るためのものでした。
旅行や外食、趣味も多くは「疲労やストレスの穴埋め」として機能し、心は緩むものの深く味わう余裕まではあまりありません。
「こんな世界もあるな」と眺める紅葉は、自分の自由生活圏の外側にある世界を訪れる感覚で、そんな自由時間は消耗からの回復です。
回復が中心にあると、そこでの体験から得た感動が心の奥に染み渡るのも、さほど深くはなかったのではと、今となっては思います。
FIRE後の自由は時間に「浸透」する
FIRE後の自由時間は、景色と自分が属する世界が同じ場所にある感覚です。
「こんな紅葉が広がる世界に自分はいる」と、心から体感できます。
明日の仕事を気にせず今日を味わえるだけでなく、属している世界そのものが違うのです。
時間に追われることもなく、心は初めて空になり、景色が自然と内部に深く浸透するのだと思います。
自由時間に「回復」を求めず、過ぎゆく時間に焦りもなく、ただあるがままを楽しむ・・これが時間の質の高まりで、体験が心に深く染み渡るのだと、いまは感じています。
終わりに
整理すると、サラリーマン時代は自由時間が断片的で、心は外界と内界の間に分断されていました。
自由は回復のため必要ですが、あくまで外側の世界にあるもので、深く味わうことは難しい。
FIRE後は自由時間が連続し、心理的余裕が生まれます。
「自分のいる世界は自由のなか」と共存しているので、時間の質が高まり、景色や体験も心に深く染み込むのだと思います。
この感覚はFIREをしないとわかりにくいものですが、自由の質は、「自由にできる時間の量」ではなく、「自由と自分が同居する世界にいる」という「立ち位置」の認識から来る気がします。
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