よく世間では「ボケないために一生涯働き続ける」という主張を聞きます。
実際、先日のテレビ朝日の番組でも「認知症の増加が社会問題として懸念される」という話題のなかで、玉川徹氏が「だから一生働けって言ってるんです」との見解を述べていました。
玉川徹氏「だから僕は一生働けって言ってるんです」 定年後も仕事を勧めるワケ「悠々自適で陶芸じゃない」
仕事が「運動・食事・知的活動・交流」といった面で認知症になりずらいプラス影響を与えるという理由からです。
ですが完全リタイア生活も4年目に入る僕は、その感覚に違和感がありました。
働かなくても十分に「運動・食事・知的活動・交流」ができると思うからです。
今日はこの「一生働く」という労働を美徳とする主張についての見解を綴りたいと思います。
労働に依存する問題
まず、生計を立てる必要のため高齢になっても働くのはやむを得ません。
また、自分の趣味や興味のある分野でのんびり老後に働くことも良いことだと思います。
一方で、働かなくても生活できるのに、それまで勤めてきた会社にしがみついて「ボケないために仕事をする」と言うのは、あまり納得できません。
ずっと会社にしがみついて、後続の若い人たちのチャンスを奪うのもどうかと思いますが、そもそも「働かないとボケる」ということで働き続けるとしたら、それは偏見にすら思うからです。
リタイア後も運動・食事・知的活動・交流はできる
僕に限らず働かない生活をしている人でも、ウオーキングやジョギングなど適度な運動をしているという話をよく聞きます。
食についても、サラリーマンの頃のストレスによる暴飲暴食はありませんし、リタイア後の方が時間的余裕もあるので気を遣います。
交流についても、家族や友人といったことも、人によってはコミュニティーやら趣味の付き合いでも可能ですし、知的活動だって、本を読んだり、旅行をして新たな世界を知るなど、さまざまな方法があります。
なんらリタイア生活で、「運動・食事・知的活動・交流」が崩れるとは思いません。
それどころか「いつまでも労働に頼って運動・食事・知的活動・交流を満たすほうが会社に依存しているのでは?」と思ってしまいます。
役職や部署の変化で一瞬にして変わる環境
仕事をしていれば強制的にでも人との交流が生まれるといった主張があります。
たしかにその通り、仕事は人との関わりで進めることが多々ありますが、だからといって、それは仕事上の役割があったうえでの関係がほとんどです。
それゆえ、役職や部署の異動、上司の交代、経営方針の転換などで、仕事の裁量が変われば、そうした人間関係もすぐに変化することがあります。
昨日まで頼られていた人が、今日からはまるで頼られずに相手にされない・・ということも珍しくないということです。
そうした変化は本人の能力や努力とは関係なく起こるので、会社という環境に依存して「ボケないために一生働く」といっても、同じ環境がずっと続く保証もありません。
雇用は永遠ではない
また、会社に雇われ続ける保証もありません。
業績悪化、構造改革、定年制度・・理由は様々ですし変化は突然やってきます。
「今は恵まれているから大丈夫」という安心感は、逆に変化に対する備えを弱めます。
これは、心理的な閉塞感や不安定な土台を抱えたまま日々を過ごすことにもつながるといえます。
やはりFIRE生活に入って実感するのは、会社に依存するというのは安定しているようで不安定だということです。
終わりに
会社は確かに多くの成長機会や安定した環境を提供します。
でもそれは永続的ではなくて、役職や部署の変更ひとつで環境は変わり、雇用の継続も保証されない現実があります。
だからこそ、「ボケないために一生働く」といったところで、会社にしがみついていてもその通り続くとは限らず、やはり自ら「運動・食事・知的活動・交流」を作り出すことが大事だと思います。
こうした「会社に頼らずにボケないための準備をする」ことが会社に依存して生活するよりも「認知症の予防」になると思うのです。
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