僕の可処分時間と可処分所得はこの20年で10倍になっています。でもこれは「ドヤ顔」できる話ではなく、仕事に忙殺された社畜として、子育てと小遣い制で家では家畜として、滅私奉公なる時代が長く続いていた結果、膨らんだわけです。
それでも当時、時間もお金も制限ある状態に不満を感じることはほとんどありません。
今日はこの「可処分資源10倍」の変化を通して感じたことを綴ります。
子育て期は不足を感じない不思議
振り返ると、子育て期は時間がないからお金を使う暇はありません。
お金を使おうと思ってもそれを使う体力もありません。
土日は朝6時から少年サッカーに通う子供たちを車で迎えて学校の運動場に連れて行ったり、真夏の日中に数時間も練習(コーチ)もしたりでヘトヘトでした。
そんな体も脳も衰弱しきった隙をついて、元妻から「子供の学費のためにお金を貯蓄する」との理屈で「小遣い制」へと知らない間に移行していました。
そんな日々は、可処分所得も可処分時間も極めて限られていたのですが、なぜかさほど窮屈な思いはなく、それどころか生活は充実していたと思います。
優先順位の中でお金や時間の不足は目立たなかったのだと思います。
FIRE後は「使えるけど使う必然性が薄い」
そんな日々から20年が経ってFIRE生活を送るいま、可処分時間も可処分所得も極貧だった当時の10倍はあると思います。
長期旅行もできますし、欲しいと思うものはその気になれば手に入ります。
ですが、実際には豪遊もブランド品を買うこともなく、これといって欲しいものもありません。
体験に投資する意味で、「毎月の支出目標」を持っていて、少しでも「意味がある」と感じた時には使ってみるようにしています。
ただ、お金を使うのは大変で、「時間とエネルギー」が必要です。
衝動的に使うこともなくあれこれ考えて使うからです。
なので家畜生活をしていた小遣いと比べれば10倍を使うことができたとしても、実際には時間的にも体力的にもお金を使うのは手間がかかるので、実質7~8倍といったところです。
逆でなくてよかった
もしこの20年の変化が逆のパターンだったら大変です。
子育て期に子供と向き合うこともなくひたすら私利私欲で浪費したり、そして今になってじり貧で「時間もお金も不足」という事態です。
そういった人生だときっと後悔していたと思います。
お金を貯めないといけない若年期に子育てで時間がない(だからお金が貯まる)、時間ができた老齢期にお金がある。
生活の質とは、お金や時間の「量」で決まるというより、求められることと状態がタイミングよく合致することに左右されると、つくづく思います。
加えて、20年前の「社畜x家畜」という低待遇から、今の「自由で自己決定できる」という良い意味での落差があり、余計に今が幸せに感じます。
巡り合わせの運が良いだけかもしれません。
終わりに
このお盆休み、都内のモールに出かけても家族サービスに勤しむお父さんやお母さんをみると、20年前の自分を思い浮かべてしまいます。
そうして、夏季休暇の貴重な時間を少しでも家族と共に過ごすことが何よりの充実になる人生ステージもあれば、今の僕のように、自分の興味関心に従って時間とお金を好きに配分できるFIRE生活が何よりの充実となる人生ステージもあるわけです。
人生ステージは変化するので、このお盆休み、家族サービスで大変なお父さん、お母さんも、「いつまでも子供が小さくて可愛い存在でい続けてはくれない」と想像し、今の貴重な時間をぜひ楽んで頂ければと思っています。
↓