FIRE(経済的自立と早期リタイア)について語るとき、「どんな生活をしたいか」、「何を目指すのか」と、「新たな生き方」という足し算の視点が取り上げられます。
もちろんそれも大切ですが、僕がFIREをして強く感じるのは、「人生から何を取り除くか」という引き算の視点がより本質的で現実的には重要だ、ということです。
例えば、夫婦や恋人同士でも「好きなものが一緒」が必ずしも良い関係を永続させるのではなく、「嫌いなものが一緒」がその永続性に効果が高いことがあります。
それと同じで、FIREも「これ以上、自分の人生に残したくないものを手放す選択」をまずは誤らないことが大事だと思っています。
今回は、そんな「FIRE=否定の美学」という観点から、僕の考えを綴ります。
「足す」より「引く」が先に来る感覚
何かを始めるとき、人は「何が得られるか」、「何が好きか」で考えがちです。
でもFIREの場合はむしろその逆で「自分にとって不要なものを除く」という引き算の感覚が基本に置くべきです。
僕が会社員人生から除外したかったのは、以下のようなことです。
平日朝の決まった起床
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月や年単位で自由が制限される生活
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意味のない目標や評価への順応
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惰性で続く人間関係
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常識や期待に合わせ続ける自分
だからといって「仕事が嫌い」ということはなく、むしろ好きだったと思っています。
「好き・嫌い」では語れない選択
仕事が好きになるかどうかは、仕事そのものより、職場の環境などが重要かもしれません。
職場環境にも恵まれ、また、仕事も「できないことができるようになる」とか「チームで協力し何かを達成する」など、良い面も多々経験しました。
でもだから「じゃあ好きならずっと生涯、やり続けるか?」と考えると、またそれは別です。
人生の残り時間を意識しだした40代からは特に「好きだからずっと続ければ良い・・」と今を起点に将来を設計するより、「人生を後悔しないか?」と将来を起点に今の生き方を考えるようになってから、なおさら違和感はありました。
好きな食べ物も毎日食べれば飽きるように、きっといくら「仕事は好きだ」という人も、それを20年、30年、40年とやり続けて幸せかは・・・よく考えたほうがいい問題だと思っています。
つまり、FIREとは「好き/嫌い」という軸だけではなく、「どこまで犠牲を許容するか」という線の引き方があるのです。
FIREは“否定の美学”である
こう考えると、FIREの本質は、「何かを得るため」ではなく、「何を持たないかを明確にする」ことだと思います。
「好きだから良い」と流されるのではなく、好きなことも否定できる、好きなことも引き算できる美学でもあると思います。
ブラック企業やパワハラなどといった明確な「嫌い」があった人は、それを捨てることがFIREだということになり、動機としても迷いは少ないはずです。
一方で、僕は「会社に人生の時間を捧げて終えるのはちょっと違う」といった、何を引き算するかがファジーだったわけで、ようやくFIRE4年目に入り、その実感を言語化できるようになりました。
FIREという人生の引き算で手放すのは、自分らしく生きるうえで必ずしも必要のない「会社員という構造を手放すこと」です。
そこには「会社が定めた目標や評価=正義」となり、それに縛られ、そこから「xxすべき」が生まれ、義務や役割をこなす、そんな籠の中での出来事なわけです。
その籠から出るのは逃げでも妥協でもなく、「これ以上、自分を犠牲にしない」ための意志だと僕は考えています。
こうして考えると、FIREという生き方はひとつの美学だと捉えています。
終わりに
FIREとは、「好きなことだけをする」ではなく、「嫌なことを人生から外す」という潔い選択です。
僕の場合、会社員としての時間の拘束を外す代わりに、「縛られずに考える時間」や「自然や社会とつながる生活」を得ました。
こうした価値観は、「働くことこそ正しい」という社会評価軸では測れないかもしれません。
でも人生の残り時間が少なくなりつつある僕にとって、はるかに意味があり、自分を満たしてくれるものです。
だからこそ、FIREは“否定の美学”としての人生設計だとも言えますし、何を捨てるかをしかり認識することが大事だと思っています。
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