僕のFIRE生活は、子育ても終え、仕事にも一区切りがついた50代という、比較的遅めのタイミングから始まりました。
それだけ長くサラリーマン生活を続けてきたせいか、FIREで手に入れた「自由」には、あるひとつの欠落を強く感じています。
それは、「日常の変化」がなくなることです。
変化のない日常といえば、「毎日仕事に追われて代わり映えしない」と会社員生活を思い浮かべる方もいるかもしれません。
でも僕にとってはむしろ、FIRE生活こそが平坦で、変化が少ない構造と感じています。
今日は、そんな“変化の喪失”がもたらした影響と、それにどう向き合っているかを綴ります。
仕事がくれていた“変化”がなくなる
会社員時代には、毎日のように小さな変化がありました。
もちろん職種にもよると思いますが、僕の場合は、予定外の会議、思わぬトラブル、急な業務変更など、常に何かしら“想定外”の出来事に直面していました。
当時は、「またか・・」と面倒に思うこともありましたが、今振り返ると、それらは心の筋肉を自然と動かす日常の基礎代謝のようなものでした。
緊張感やストレス、時には達成感やちょっとした喜びなど、そうした感情の起伏を30年以上も当たり前に味わっていたのです。
なので、この長すぎた会社員時代を終えFIRE生活に入ると、こうした外的な変化がほとんどなくなります。
そんな日々はとても穏やかで理想ではあるものの、あまりにもの変化のない「平坦さ」はマンネリ感を生む原因になりえました。
「移動」が感情を取り戻す装置になる
そんな変化の乏しい「平坦なFIRE生活」に、自然と変化をもたらしてくれたのが「移動」でした。
ここでいう移動とは旅行とも言えますが、それは単なる観光旅行ではありません。
2〜3日の小さな旅でも、観光をしなくても、自分の身をいつもと違う環境に置くことが大事で、その間は五感が目覚め、心が動き出すのを感じます。
環境変化の事例
例えば、真夏に羽田から那覇に降り立った瞬間、「あれ? 東京より涼しいかも」と感じたり、高知の海沿いをドライブすれば、「空と海が大きくて自然が豊かだ・・」と思ったり。
道頓堀の川沿いのレストランは外国人であふれているのを見て、「ここ日本だったっけ?」と驚いたり、逆に海外のベトナムではその田園風景に「どこか懐かしいな」と日本を感じたり・・。また、バンコクのデコボコな歩道や水たまりに、「東京の舗装って本当に快適だったんだな」と気づいたり。
歴史的な建物には「静かな威厳」を感じれば、雨上がりの神社で土の匂いを嗅ぐと不思議と心が落ち着きます。
こうした体験は全て、旅先で五感がフルに働くからこそ得られるものです。
動画やネットでは味わえない「リアルな感情の揺れ」がそこにあります。
移動のメリット
旅先で感じるこうした感情の揺れに加え、現地のリアルを体験できます。
田舎のスーパーに行くと「肉の価格が品質の割に高いなあ」と感じたり、不動産屋の前ではよく家賃相場などもチェックするのですが、土地の暮らしぶりやコスト感を肌で感じられます。
そうした情報は、自分の思い込みや固定観念を修正してくれたり、「ここに移住したらどうだろう?」といったことを考えたり、そして「思ったより地方生活は高くつきそうだ」とシュミレーションしたりできます。
仕事をしていれば、嫌でも思考を変える場面に出会いますが、FIRE後の生活では、自ら仕掛けないと思考が固まりやすいということです。
だからこそ、月1回のペースで「移動 → 感情が動く → 行動が変わる」というプロセスを意識的に設けています。
旅先で感じる「好き」「嫌い」「快」「不快」はすべて、自分の感性を知る貴重なデータです。なので、それがネガティブな経験でも「自分の内面に触れた証拠」だと思って大事にしています。
こうした五感によるインプットによって、行動も人生計画も、変わってきます。
終わりに
FIRE生活には、確かに自由があります。
でもその自由は、放っておけば「平坦」ですし、その平坦さが長く続けば、今の僕においては感情が鈍り、自分の輪郭が薄れてしまう気がしています。
だからこそ「移動」という方法で意識的に変化をもたらすことを取り入れています。
それは、仕事がくれていた「外からの変化」を自分自身の手で再現する行為です。
FIREで得た自由はすばらしいものですが、その自由を豊かに使いこなすためにも「感情が動く仕掛け」が必要です。
僕にとって、それが「移動」というものです。
↓