「働いたら負け」・・というのは、働くことへの違和感や抵抗感、そして社会構造そのものへの抗議の言葉だったりします。
こうしたスタンスを取ることは悪くはない(そう思えるぐらい社会経済も行き詰まっている)とは思いますが、どうしても「働いたら負け」について思うことがあります。
今日は、それを言葉にしてみたいと思います。
「働いたら負け」が意味しているもの
まず、この言葉が意味する「負け」とは、単に「労働=損」という単純な話ではありません。
① 搾取構造への違和感
頑張って働いても、所得税や社会保険料に差し引かれ、手元に残るのはわずかな金額です。
そのうえ、健康をすり減らしたり、人間関係に悩んだり、責任ばかりが増えるのが仕事です。
「これ(仕事)は本当に割に合ってる?」という感覚は、決して的外れではありません。
② 頑張った人ほど報われない構造
真面目に働けば働くほど、上司や同僚からの期待が増し、結果的にサービス残業や「便利屋」扱いが常態化します。
一方で、要領よく立ち回る人や「働かないおじさん」が高給を得ている現実もあります。
頑張ること自体が損になる、そんな逆転した構造にやる気が萎えるのも無理はありません。
③ 将来不安が「働き続ける人生」を縛っている
年金制度は先細り、物価は上がり続け、定年後も働き続けなければならない社会構造。つまり「いくら働いても、未来は明るくならない」という感覚があります。
そんな見通しのなかで、「もう最初から資本主義ゲームに参加しない」という選択肢をとる人が増えているのでしょう。
一理ある「直感」への共感
こうした不満や諦めの感情は共感できる部分がありますし、明るい社会に変貌すればと願いますが、とはいえ現実にはこの状態が続くことになるのでしょう。
それゆえ、「働いたら負け」と言ってるだけで、それで本当によいのかと思う部分があります。
例えば、
-
自分の時間や健康が切り売りされるだけの働き方は、たしかに「負け」に近い。
→ でも、それは本当に「すべての労働」に当てはまるのか? -
頑張っても報われないのなら、働くことはリスクに感じられる。
→ しかし、「働かない選択」も同様に、大きなリスクではないか? -
日本の将来に期待できないのなら、誰のために働くのか?
→ けれど、自分を救えるのは最終的に自分しかいないとしたら?
「働いたら負け」と感じる合理性もリスクもあるなかで、どう逆転するか、やはり考えてしまいます。
土俵に乗らないなら、恐れず「運」にかける
もし自分がその立場だったら、僕は「運」を味方につけるよう動くと思います。
生まれながらの不公平、スタート地点の違いなど、そもそもが平等でないことが世の中には溢れています。運だけは「平等」とも言えます。
「働いたら負け」と土俵に乗らないことは、何ら失うものも負けもない強さでもあるからです。
たとえば、少しだけバイトをして10万円を貯める。そのお金で、将来性のある株に投資してみる。仮に失敗しても「元々ゼロだった」と思えるなら行動する価値があります。
もちろん、ネット上では詐欺まがいな「儲け話」があるので、制度がしっかりしているもの(新NISAでの個別株等)を選ぶと思います。
終わりに
平等さに欠けていたり、公平と思えないことは、社会だけでなく会社生活の日々でも遭遇するものです。
働けば働いたで、「これは期待しても無駄だ」とか「やり損だ」となることもありますし、結局、立ち止まっても進んでも、どこかで遭遇してしまう問題でもあるかなとは思います。
サラリーマンは数年待てば人は異動したり自分も異動して環境は変わります。それも運に任せる解決方法で、その運が好転する(異動で恵まれる)ようにダメ元で手を打つことが、そんな株の対応と似ている面があります。
↓