テレビの街頭インタビューなどで「年金だけでは暮らせない」「老後資金が足りない」といった声がよく取り上げられています。
こうした報道を目にするたびにいつも疑問を感じてきました。
というのも、僕の母の生活実態を見ていると、老後生活にそこまで多額の資金が必要だとはどうしても思えないからです。
母は80代で、食事は質素、買い物や外出も最小限、住まいも50㎡で「少し広すぎる」と言うほどです。旅行には行かず、娯楽も控えめ。支出らしい支出は、たまに姪にプレゼントを贈る程度です。
生活は年金収入の範囲で十分に成り立っており、本人も特に不自由なく、むしろ満ち足りた様子で日々を送っています。
今日はそんな「老後不安は幻想ではないか」といった体感を綴りたいと思います。
老後不安は「平均化」と「過剰予測」の産物
老後不安が社会問題として注目された大きなきっかけに、2019年の「老後2000万円問題」があります。
これは金融庁の報告書に基づいたもので、夫65歳・妻60歳の無職の夫婦が、95歳までの約30年間生活するためには、公的年金以外に約2000万円の不足があるという内容でした。
しかし、この2000万円という数字は、あくまで平均的な家計調査(当時の月額不足5.5万円×12か月×30年)に基づく推計に過ぎません。
しかもその「平均生活費」には旅行や外食、趣味なども含まれており、老齢による生活スタイルの変化、すなわち自然と支出が減っていく現実は反映されていません。
さらに、医療費や介護費など将来かかるかもしれない不確定な支出まで「最悪ケース」で盛り込まれることで、「見えない不安」が膨らんでしまっている構造があります。
実際の老後支出は最適化されていく
高齢になると、身体的な理由も含めて生活は自然とコンパクトになります。
以下のような傾向が顕著です。
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食費:少食になるため自然と減る
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交際費・娯楽費:行動範囲が狭まり、出費は限定的に
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住居費:持ち家であれば固定費は抑えられ、リフォームも最低限で済む
母の場合も、60代は旅行や外食など出費が多かったと思いますが、80代の今では生活費は半分以下になっています。
また、老人ホームに入居する場合も、一定の所得・資産条件を満たせば「特別養護老人ホーム(特養)」などの公的施設に低額で入ることが可能です。民間の有料老人ホームは高額な場合もありますが、選択肢として公的支援が用意されています。
医療費や介護費は「制度」がある
老後の支出で特に懸念されるのが医療費ですが、日本には「高額療養費制度」があります。
これにより、月ごとの医療費負担には所得に応じた上限が設けられており、例えば年金暮らしの高齢者であれば月額1~2万円台で自己負担が収まるケースも少なくありません。
実際、母は緑内障の手術で入院もしましたが、支出した額は数万円でした。
介護に関しても、介護保険制度により所得に応じて1〜3割の自己負担で介護サービスを利用できます。
また、特養などへの入所時にも「補足給付(介護保険施設における低所得者向けの給付)」が設けられており、資産500万円以下であれば入所費用の一部が公的に補助される仕組みもあります。
今後、制度変更の可能性はありますが、極端に困窮した高齢者への支援を削減するような改悪は、社会的に支持を得にくいため、ある程度の制度的セーフティネットは維持されると思っています。
それでも「政府は信用ない!」と思う人がいるかもしれませんが、それは要は「リスク費」であって「不確実さへの備え」という実際に使われるかどうかわからないバッファーです。
そんなバッファーを沢山積んでも良いとは思いますが、あくまで準備費という位置付けです。
「今の満足」と「最低限の安心」があれば十分
母の姿を見ていて強く感じるのは、「不安がないから幸せなのではなく、満足があるから不安に目を向けなくて済む」ということです。
実際、母の生活において重要なのは、
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年金で生活が成り立っている
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ときどきお墓に行ける
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息子といつでも連絡がとれる
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友人と電話で近況を分かち合える
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姪の成長を楽しみにできる
というような、小さなつながりと習慣です。
決して「将来何が起こるかわからないから数千万円必要だ」という思考には至っていません。
終わりに
老後不安という言葉には、平均と最悪ケースを組み合わせた「過剰な想定」が多分に含まれています。
そのため、「自分にとって本当に必要な暮らし」と「最低限の制度的保障」を知っていれば、必要以上に恐れる必要はないのではと思います。
大切なのは、自分自身の老後生活を「平均」や「不安モデル」ではなく、「個別の実情」に基づいて見直すことだと切に思います。
そして、今の暮らしを整え、将来への最低限の備えをすれば、老後は思っている以上にシンプルで穏やかなものになるのだと思います。
どうも「老後不安」というのはメディアが政府批判をする道具として、「街の不安の声ばかりを過剰に集めた」という恣意的な行動から生まれた側面も大きい気がしています。
過剰の恐れず、適切に対処するのが大事です。
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