年収1,200万円だった元部長が、再雇用で年収7割減。しかも若手社員に過去の武勇伝をさえぎられ、「惨めさを感じた」と語る記事を見かけました。
その記事では、「シニアが再び働きがいを感じられる組織づくりが大事」と、あくまで企業側の制度や環境に焦点が当てられていました。
でも、僕には、むしろ個人の意識や行動の問題が大きく、それに気づかないまま「制度が悪い」と片付けるのは少し甘いように感じました。
今日はその観点から、このケースを元に「シニアとして必要とされる働き方」について考えてみたいと思います。
記事はこちらです。
惨めだ…〈年収1,200万円〉だった62歳元部長、再雇用で給与7割減。28歳年下の元部下に言われた「残酷なひと言」でプライドが崩壊
再雇用で期待されているとの勘違い
記事の主人公である高橋さん(仮名)は、かつて大手メーカーで営業部長を務め、年収1,200万円を稼いでいた人物です。
定年後、同じ会社で再雇用されたものの、年収は360万円まで減少。元部下たちが管理職に昇進する中で、単純なデータ入力をこなす日々に落差を感じ、「惨めさを覚えた」といいます。
僕から見ると、まず前提がずれています。再雇用は「戦力として期待される登用」ではなく、「機会提供としての雇用」です。給与も役割も明らかに変化しているなかで、「以前のように期待されている」と誤解していることが、そもそも現実とのズレを生んでいます。
年収が大幅に減ると同時に、自分の存在感も組織内で相対的に小さくなる・・これは制度上、明らかに想定されている変化です。
その変化に適応せず、「まだ同じ自分でいられる」と思い込んでしまった時点で、落胆する未来はほぼ確定していたように思えます。
ちなみに、高橋さんの感じた惨めさは以下です。
・自身が指導した部下たちは今や管理職となり、たまに社内で顔を合わせると部下だったころのように向こうから話しかけてきてくれる(気を遣われている)
・自分が決裁していた大きなプロジェクトの話を遠くで聞きながら自分は単純なデータ入力や資料の整理を黙々とこなす落差
語りたいだけの人は老害でしかない
記事ではもうひとつ印象的なシーンがありました。
営業戦略の会議で、若手が活発に意見を交わす中、意見を求められた高橋さんは、「私の経験から言うと…」と過去のプロジェクトの成功談を10分以上語り続けます。
そして、途中で34歳の課長にさえぎられ、「武勇伝はその辺にして、先週のデータ分析をお願いします」と言われ、プライドが崩壊したというのです。
これは冷静に考えると当然の指摘です。目の前にある課題に対し、現場は「今、使える解決策」を求めているのに、文脈や目的から逸脱して、過去の栄光を語られても何の意味もありません。
これは、年齢や立場に関係なく言えることですが、組織やチームが必要としているのは「情報」や「解決策」であって、「自己肯定のための語り」ではありません。求められていないのに自分の経験を語りたいだけの人は、年齢に関係なく敬遠されてしまいます。
経験は「語る」ものではなく「翻訳」するもの
もちろん、シニアの経験が無価値だとは思いません。
ただ、その価値を「今」の文脈に合わせて提供する能力が求められているのです。
たとえば、高橋さんが語った経験が、現在の市場環境や顧客ニーズにどう応用できるか、その状況変化を踏まえた翻訳力や知見の応用力があれば、経験は「活きた知見」になりますが、ただ「過去にこうだった」という話をされても現役世代には通じません。
つまり、経験の価値は「伝える内容」よりも「相手にとって有益なかたちで届けられるか」で決まると思います。
それができなければ、どんなに立派な実績もただの武勇伝(昔話)にしか聞こえないのです。
終わりに
結局のところ、高橋さんの感じた惨めさは、「収入の減少」や「過去の地位の喪失」そのものではないように思います。
それは、「自分が誰からも必要とされていない」と感じたことに起因しているのではないでしょうか。
それは制度の問題ではなく、働き方と意識の問題です。
記事には、
定年後も働ける環境は整いつつありますが、一方で、シニア社員のモチベーション低下が問題になっています。しかし、もし彼らが再び働きがいを感じられる組織にできたなら――その知見と経験は、会社にとって何よりの財産になるはずです。
といった締めくくりがとても違和感があります。
必要とされたいなら、まずは相手のニーズに自分を合わせる努力が必要ですし、もし自分を活かせる場が今の職場にないのなら、視野を広げて別の場所に移る判断も大切です。
“惨め”にさせたのは、制度でも会社でもなく、「準備も適応もしなかった自分自身」だと、そろそろ気づくべき時代なのだと思います。
↓