ある記事で、スーパーの総菜を毎日“半額”で買って暮らしている50代男性の話を読みました。
就職氷河期に苦しみ、非正規の立場から抜け出せないまま年を重ねた方のようです。
「若い頃は、こんな生活になるとは夢にも思わなかった」、「唐揚げ弁当が残っていてラッキーだった」・・。そんな言葉が並ぶ一方で、記事全体は「こんなはずじゃなかった」という無念さが滲んでいました。
ただ、読んでいて僕が強く感じたのは、「半額弁当を買う」という行為そのものが“惨め”なのではなく、それを惨めだと感じてしまう心の状態に目を向ける必要があるということです。
今日はこの記事から感じたことを綴ります。
どう生きていけと…〈手取り月15万円〉52歳非正規男性の慟哭。毎晩19時、スーパーで「半額シール待ちが日課」の悲劇
同じ行動でも「意味づけ」は変えられる
僕自身、半額の食材を買うことは日課ですし、惨めというより、むしろ合理的で賢い選択だと思っています。
節約にはなるし食品ロスを減らす意味でも有益で、前向きな暮らしの知恵のはずです。
ですが、「そんなものを買っている自分は惨めだ」と感じる人もいるのです。
その原因は、「もっといい暮らしをしているはずだった」、「こんな生活は自分らしくない」・・といった「想定していた自分の理想像とのギャップ」が、合理的な行動であるのに「屈辱的な現実」と感じることになっています。
理想を前提に生きるか、現実を前提に整えるか
人はどうしても、「理想」を基準に自分の現状を測ってしまい、そこにギャップはあるものです。
他人の生活や状況をみて「理想的だ」と思えるところから始まります。
自分の悪い部分と他人の良い部分だけを比較してしまうので、決して幸福は感じられません。
そんな他人だって、その裏では多大な苦労をしているはずですが、それが見えないゆえ差っ引いて他人の良い部分だけで比較するので尚更です。
そして、この行動は他人との比較のようでいて実は「自分は理想通りになっていない」と「自分の理想と現実の差」に不満を感じているものです。
もちろん、その原因が就職氷河期世代の社会構造や雇用慣行が不利に働いたことは事実だと思いますし、それを経験していない世代には理解されにくいのも理解できます。
それでも「現実をどう受け止め、これからの自分をどう設計するか」は、自分自身にしかできない問題でもあるわけです。
社会の構造と、個人の選択のあいだで
なので大事なのはバランスだと思います。
「すべて時代のせい」にしてしまうと、自らを省みる機会を失いますし、「すべて自己責任」だと、不利な構造の存在を見落としてしまいます。
極端な偏りでは本質からズレてしまうので、「不利な社会構造」と「それでも自分には選択の余地があったこと」の両面で、現実解を得ることです。
実際、どの時代も良い面・悪い面があるわけです。
半額弁当はむしろ生活戦略になりうる
現実解の例として僕はこう思いました。
記事によれば、田中さん(仮名)の通うスーパーでは19時になると賞味期限が近い惣菜が一斉に半額になるそうですが、
「今日は唐揚げ弁当が残っていたからラッキーでした。いつもはこんなにいいお弁当が残っていることはないから」・・。できるだけ安く夕食をすます。これが田中さんの処世術。このような生活を、かれこれ8年近く続けています。
でもこれ、好きな弁当が売れ残っているのを期待したり、売り切れていたと嘆くより、半額の唐揚げ弁当が複数あるときに、まとめ買いして冷凍保存すれば良いわけです。
天に運を任せるのか、自分の選択で「唐揚げ弁当を解凍して食べる日」を作るのか、たったそれだけで、天に運を任せて嘆くか、自分で運をコントロールするかの大違いです。
なので、「自分の理想とならない現実に絶望」するより「コントロールできるものに適切な対応策を持つ」とすることで、心持ちや状況は少しずつ変わっていくはずです。
終わりに
全く同じ行動でも、「半額弁当を買う自分は惨めだ」、「こんな生活になるはずじゃなかった」・・と思う人もいれば、「おかげで支出が抑えられて助かってる」と笑って暮らす人もいます。
その違いは、外の状況ではなく、どう捉えるかという内面の態度です。
自助努力で生活をコントロールできる部分があるなら、そこに向き合う視点を持つことで生活の質は変わっていくと思います
もちろん就職氷河期という時代の理不尽さもあるとしても、「今できる選択」をすることで、再び手綱を自分に取り戻せば、記事の田中さんだって「惨めさは変えられない現実だ」から「捉え方や行動で変えようがある」となる気がします。
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