FIRE生活をしていると、「お金をどう使い切るか?」という問いに、たびたび向き合います。
中でも『Die With Zero』にある「お金は死ぬときに使い切るべきだ」という考え方は、FIREを実践する者にとって避けて通れないテーマです。
お金の出口戦略をどう描くかは、FIREの生き方そのものを問い直すことでもあり、生活設計にも資産計画にも影響します。
今日は、僕自身のFIRE生活を通して感じた「お金の意味」と、「Die With Zero」に対する個人的な違和感について綴ります。
僕にとってのお金の意味
そもそも、「自分にとってお金の意味は何か?」を解なかければ、Die With Zeroの正誤を導けないと思っています。
僕にとって「お金の意味」は人生のステージによって変わってきました。
会社員時代、お金は「家族の生活を支える手段」でした。家族の笑顔や安心につながるものであり、いわば幸せの媒介物だったんです。
ですが家族との生活も一区切りしてFIREをした今は、お金の役割はがらりと変わりました。
今では、お金は「人生の時間を守るための土台」、もっと言えば、「精神の安定を支えるインフラ」のようなものになっています。
「お金を使って幸せを買う」という時期はすでに過ぎています。
もはや、欲しいものがあまりないという消費欲求の無さもありますが、大きいのは、FIREをした時点で「お金で残り人生の時間を買う」というお金で幸せを買った状態だからです。
Die With Zeroへの違和感
『Die With Zero』の考え方には納得できる部分も多いです。
若いうちにお金を使って豊かな体験をすることの価値は大きく、また、年齢を重ねるほど、経験の吸収力や体力は落ちていくからです。
なので、若い頃の支出こそリターンが大きいという視点には頷けます。
けれども、「使い切ること」を前提とした人生設計には、僕自身は違和感を持っています。
なぜなら、僕のFIRE生活は「何かを得るためにお金を使う」よりも、「何も足さなくても満ちている状態を味わう」ことにも、深い充実を感じているからです。
旅行や各種趣味でお金を使うのは、結果的に、好きなことをもっと極めたり体験したりするなかで自然とお金を使っているだけで、「お金を使い切る」という目標に囚われてやっているのではありません。
お金の奴隷になることなく、「FIREによって得た”人生の選択肢”を下支えするのがお金である」と、そんな役割をお金に与えている感覚です
お金を減らすより納得感を増やす
こうしてみると、FIRE前は「お金を稼ぐことで人生の選択肢を得る」と、どこかお金が上位にある考え方をしていたのがFIRE後は変化したのだと思います。
経済的自立を達成してお金があることで、「お金を使う自由」と「使わない自由」が両立しているというのが、FIREの本質的な贅沢だと思えています。
「資産を取り崩してゼロにする」のではなく、「取り崩さなくても満ちている」という感覚や納得感もあるわけで、そんな「使わないでも幸福だ」という気づきも大きいのかもしれません。
FIREをして自由を得たことが、お金を減らすことで無理に納得感を作らなくても良いと、そんなスタンスで自然と出口を迎えた時、お金が残れば残ったで、相続をすれば良いとも割り切っています。
終わりに
『Die With Zero』は「お金を体験に変えて価値を最大化しよう」という提案です。
その考え方は、FIREを志す多くの人にとっても有益だと思います。
でも、今の僕が大切にしているのは、「お金をどう使うか」ではなく、「お金に支えられた自由な時間をどう生きるか」です。
やりたいこと、経験したいことにお金を使いもするし、無理にお金を減らさないとか、増やしたいとか、そういった「お金に囚われること」は自由を損ないます。
結局、「自由>お金」という優先順位を大事にし、「自由に自然体に生きることを大切にしたい」というのがDieWithZeroへの僕の解です。
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