国民的グループ「嵐」が、来年“解散コンサート”を開くと報じられ話題を呼んでいます。
彼らは若くして名声と経済的基盤を築いており、もはや「働かなくても生きていける」状態です。
そんな彼らが、グループとしての活動を終了するという決断を下したのは、ある種、芸能人なりのFIRE(経済的自立と早期リタイア)と見ることができます。
ただし、嵐の選択と一般人のFIREとでは、「自由を得るための条件」が大きく異なります。
今回はその違いに注目し、2つのリタイアの構造を比較してみます。
嵐のFIRE:グループの「全員一致」が前提条件
嵐は、5人で活動してこそ成立するユニットです。
つまり、1人でも「続けられない」と言えば、グループは解散せざるを得ません。
この構造では「やめる自由」は個人にある一方、「続ける自由」は全員の合意が前提です。
言い換えれば、「全員が続けたいと思い続けない限り、グループは自然と終わる宿命にある」のです。
一般人のFIRE:個人の判断で「自由」は実現可能
サラリーマンなど一般人のFIREは、基本的に個人の判断で実行可能です。
家族や職場との調整は必要でも、最終的に「辞める」という決断は自分ひとりで下せます。
その決断で、他人の人生が直接崩れることもありません。
つまり、嵐のような「誰かが抜けたら終わる」構造とは違い、一般人は「誰かが抜けても回る」仕組みの中にいるのです。
FIREという自由への到達には、前提となる“構造”が大きく異なるのです。
続けることの難しさ、やめることの難しさ
興味深いのは、「続ける条件」が厳しい嵐と、「やめる条件」が厳しい一般人という対比です。
一般人がFIREを目指すときは、「大丈夫か?」、「家族は納得しているか?」といった確認が必要で、やめる自由が制約されがちです。
対して嵐は、やめるのは個人の自由でも、続けるには全員の合意が必要です。
つまり、一般人はやめたくてもやめられず、嵐は続けたくても続けられないという、真逆のジレンマが存在するのです。
終わりに
以上、芸能人として大成を収めた嵐は、経済的にも環境的にも自由に見えますが、実際には、「個人の意志だけでは続けられない」という制約があります。
また、その知名度ゆえ、一般人に戻っても「人の目を気にしながら生き続けなければならない」という「不自由」もつきまといます。
芸能人も一般人も、自由の形は違って、それぞれの制約があります。
自由は、芸能人も一般人も関係なく、手に入れるのも、使いこなすのも、簡単ではないということですね。
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