僕が会社員だった頃、「自分にご褒美をあげる」という習慣は少なからずありました。
美味しい料理を食べに行ったり、温泉でのんびりしたり、たまにブランド品を手に入れたりすることがそれです。
これらは単なる娯楽ではなく、自分の感覚を取り戻すための儀式のようなものでした。
ところがFIRE後の生活ではこのご褒美はぐっと減ります。
今日はそういった「ご褒美」がなぜ減るか、どのように変化するかを綴ります。
ご褒美はなぜ必要だったのか?
現役時代は資産を増やすことを優先していましたが、それでも時には自分へのご褒美としてお金を使ったりしました。
その目的は3つあると思います。
1. 報酬と充電
仕事で無理をして頑張ったあとは、心身を休めるために「ご褒美」をすることがありました。
頑張りに対する報酬として、食事や旅行などをするわけですが、それは次の仕事に向けての充電でもありました。
つまりこの仕組みは、「頑張り→疲労→報酬→充電→頑張り・・・」といったサラリーマンゆえの「仕事を頑張り続ける循環」です。
2. ストレス解消・緊張緩和
また、毎日忙しく働いていると、ストレスやプレッシャーが溜まります。
そんな中でご褒美は、一時的に自分を解放する時間として大きな意味を持ちます。
無理をした反動としての消費が、精神的にバランスを取ってストレスを処理するのです。
3. 自己効力感の強化
さらに、「やり遂げたこと」を物質的に証明したくなるものです。
目に見えにくい成果や自分なりにハードルをクリアーしたと感じると、自分に対して「頑張った」という証であり褒める行為としてご褒美を使うというものです。
自分のケースを掘り下げた
ご褒美をする目的としては前述の3つがあるわけですが、そもそもご褒美をして報いる「自分の頑張り」というものが、何であるかは、人によって違います。
僕の場合、仕事のハードさと自己規制というものでした。
月100時間を超える残業はざらで、仕事のハードさによる心身的疲弊はありました。
また、「こいつと働きたくない!」といった人の好き嫌いだって、「この仕事は意味あるのか?」といった疑問だって、働いている限り生じます。
そうした納得できないことが稀にあったのですが、不満を漏らしたり、正義感から「違うだろう!」なんて言いださず、自分の役割を淡々とこなすように努めていたと思います。
なのでご褒美は、こうした「仕事のハードさ=自分の時間を抑制、納得感のない仕事=自分の正義を抑制」みたいな「自己抑制」に対するケアであり、またそれが報酬というものです。
パワハラやブラック企業のケースだと?
もし、人間関係が悪かったり、パワハラがあったり、待遇がブラック企業的だったりすると、そうした環境にいる人の「頑張り」への報酬というのは、パワハラや理不尽さに対する防衛ストレス(耐えた)というものかもしれません。
ご褒美の対象となる「頑張り」は人によって違いますし、このような場合は、より「癒し」や「自分を労わること」がご褒美のやり方になるのかもしれません。
FIRE後に「ご褒美」は消失するか?
そして、こうした「ご褒美」はFIRE後は激減します。
その理由は、以下のような変化がFIRE後に起こるからです。
1. 報酬の「外的動機」が不要になる
FIRE生活では、他者の評価や昇進に縛られることはなくなります。自分がやりたいことを自分のペースで実行できるようになり、「頑張ったから何かを得る」という外的動機が不要になります。
2. ストレス源が激減する
義務や抑圧から解放されることで、「無理をした反動としての贅沢」や「ストレス解消としての消費」が自然と減っていきます。
3. 「足るを知る」感覚が内在化する
FIRE後は「何かを得るために頑張る」よりも、欲が減ってしまい、「いまあるものを丁寧に味わう」方向に意識がシフトします。
欲が減るという点は以前記事にしています。
4. ご褒美は“体験”や“感性”にシフトする
FIRE後の「ご褒美」は、モノを所有する欲や享楽的な消費というより、体験的・感覚的な豊かさへ変化します。
例えば、豪華ディナーではなく旅先の素朴な郷土料理であったり、温泉旅行での癒しではなく好奇心を満たす旅行であったりします。
日常の変化を豊かに感じたいので、季節の花や食材を楽しむこともあります。
ご褒美は自分に向けるというより親孝行や恩返しなどの形も多くなります。
終わりに
現役時代のご褒美は、仕事の義務や役割、抑圧に耐えた自分への“報酬”でした。
FIREによってその前提が解けると、ご褒美は“自分に報いる”というより、日常そのものを丁寧に味わい、感性を豊かにすることに変化します。
また、それを誰かと共に味わうことも大切なご褒美になります。
今週、母親を連れて都内の夜桜のスポットに行って春の訪れを味わってきたのが直近のご褒美です。
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