FIRE(経済的自立&早期リタイア)という「働かずとも生きられる自由」は、誰にとっても理想に映るかもしれません。
しかし現実には、年収が1億円を超えても「FIREなど意味がない」と語る人たちがいます。
たとえば実業家の堀江貴文氏などがその代表です。
最近、その感覚が少し理解できるようになってきました。
今日はその内面にある感覚を、あえて言語化してみようと思います。
FIRE否定論の根底にある感覚
たとえば堀江氏は「FIREなんていう退屈には耐えられない」と語り、FIRE生活に対して強い違和感を示しています。
「FIRE」を達成したところで虚しいだけだ。悠々自適なんてボケ一直線である。
(ソース:東洋経済オンライン)
早期リタイア「FIRE」を目指して結局後悔する理由 FIREの資金ができた頃、「つまらない人間」に
この言葉の奥には、「自分は仕事によって存在している」という感覚があるように思えます。特に印象的だったのが以下の一節です。
本当にやりたいことがあるのならいますぐやればいい。本当にやりたいことならば、趣味であれ副業であれ、なんらかの形でいますぐやれる。・・人はつまらない仕事をするために生まれてきたのではない。辛い労働に耐えるために生まれてきたのでもない。幸せな生き方とは「早期リタイアなんて御免だ!」と言える生き方だ。
働く理由は「承認」や「実現」ではない
では、こうした「仕事が好きな人」はどういった動機に突き動かされているのでしょうか?
一般的には、「自己実現」や「承認欲求」としての仕事の必要性が語られます。
しかし、堀江氏のような人物にとって、それだけでは説明がつかないように思えます。
彼にとって仕事とは、「戦い続けること自体がアイデンティティ」であり、「その生き方こそが堀江貴文である」という感覚ではないかと思うのです。
自分自身との約束としての「戦い」
ではその「アイデンティティ」とは何か?
それは、他人が与えるタグというより、自分が自分であることを自ら認められる状態と思います。
つまり、堀江氏にとっての仕事は、他者に褒められるためでも(承認)、自分の能力を発揮する場でもなく(実現)、自分との約束を守り続ける行為に近いものです。
戦い続けているからこそ、自分が自分であると感じられる。それを失うことは、自分を見失うことに等しい。そんな感覚に思えます。
登山が好きな人に「なぜ登山が好きなのか?」と聞いても「そこに山があるからだ」という感覚に近いのだと思います。
FIREは“存在の輪郭”を曖昧にする
ではこの文脈で、堀江氏にとってのFIREを定義すると、それは「戦わなくてもよい」、「頑張らなくてもよい」という選択肢を手にすることになります。
堀江氏のような人物にとって、その選択肢はまるで魅力を感じるわけがなく、逆に、「自分の輪郭」を曖昧にする危険があります。
戦わない自分は、自分ではない
成長と挑戦を続けていないと、自分ではない
競争がないと、生きている自分がいない
こうした人々にとって、FIREはライフスタイルの転換とか自由の象徴ではなく、「自分が自分でなくなる恐怖」に直結する、いわば(不自由というより)「不在」となる危機なのです。
終わりに
FIREに否定的な人々も、決して間違っているわけではありません。
彼らには彼らの「生きる理由」があって、それが「資本主義の最前線で戦うこと」ということなのでしょう。
僕にとってのFIREは、サラリーマン時代のアイデンティティを手放し、自分本来のアイデンティティを「選択肢を選びながら作り直す時間」と考えていました。
ですが、FIREに否定的な人々を理解するにつれ、FIREが良いとか悪いとか、選択肢があるとか無いとかより、「自分が自分でいるために必要なものを手に入れているのか」が、実は最も大事なのかもしれないと、思うようになりました。
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