「FIREは暇で辛い」・・こうした声はずっと以前から出ています。そして「FIRE卒業」という言葉もすっかり一般化しています。
FIRE4年目の僕自身は、いまもこの生活を楽しんでいます。ただ、だからといって「暇が辛い」という感覚を一概に否定するつもりはありません。
むしろ、その感覚がどのタイミングで、なぜ立ち上がるのかは、かなりリアルに想像できます。
FIRE直後は「暇」よりも解放感の方が大きい
まず正直に言うと、FIRE直後の僕は「暇で辛い」どころではありませんでした。それまで何十年も、時間・目標・評価に縛られて働いてきた身からすると、
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目覚ましに追われない
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目標を達成しなくていい
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今日を「意味ある日にしなくていい」
この状態そのものが、圧倒的に心地よかったのです。
時間は驚くほど早く過ぎていきました。何かを成し遂げなくても、焦りはなく、むしろ「やっと人間に戻れた」という感覚すらありました。
半年ほど経って浮かれが落ち着くと別の問いが出る
変化が訪れたのは、半年ほど経った頃です。
生活に慣れ、非日常だった自由が日常になると、ふとこんな問いが浮かびました。
「このままで、本当にいいのだろうか?」
これは虚無感というより、浮かれた気分が落ち着いた後の自然な自己反省なる作業に近い感覚でした。
多くの人が「FIREは暇で辛い」と感じるのは、このフェーズだと思います。
そこでは、それまで人生の骨格を支えていた、
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ToDo(やるべきこと)
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ToBe(あるべき姿)
Being(心地良い状態のこと)
の間で悩む構造があるのだと思っています。
僕自身もToDo/ToBe型の人間だった
誤解のないように言うと、僕も最初から「プロセス重視(Being)」で生きていたわけではありません。サラリーマン時代の僕は、明らかに「目標達成重視(ToDo/ToBe)」の思考にほぼ支配されていました。
目標達成に向け進捗管理をしたり(ToDo)、理想な状態になるため努力する(ToBe)という枠組みの中で長年生きてきた人間が、いきなり「目的なしの自由」を与えられれば戸惑うのは当然です。
だから僕は、FIRE後しばらくは意識的に振り切りました。
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ToDo/ToBe 20%
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Being 80%
「やるべき」という発想を極力減らし、その日の気分や関心を優先する生活です。
サラリーマン時代に作った「人生のやりたいことリスト100」もあえて放置しました。
これは悟りではなく、FIRE後の自由の使い方を探る実験でした。
そこでの仮説は「Todo/ToBe志向を取り除けば自由は広がる」というものです。
「生産性の呪い」は後からほどけていく
この実験を続けるうちにあることに気づきました。
「何かの役に立っていないといけない」、「成長している実感が必要だ」・・という感覚は、実は社会的な刷り込みだと感じ始めたことです。
仕事をしていなくても、誰にも評価されなくても、成果にならなくても、平日昼間に散歩をしてサラリーマンの頃に気付かなかった何かに気付けば、それだけで「昨日とは少し違う視点を今日から持てる」といった感覚となります。
それがわかると、「ToDoやToBeという目標到達地点がわかってしまうほうが退屈では?」と思えてしまうのです。
「今→目標地点」に到達する点と点を繋ぐプロセスが「無(=集中)」であり、また達成できなければプロセスは「無意味」となるからです。
意識は「今」に振り分けられていません。
毎日を、毎瞬間を感じれれる「ドット(点)」をつないで、結果、線が生まれるほうが居心地もよく時間の無駄ともなりません。
これはFIRE前に頭で理解できるものではありません。時間のプレッシャーが完全になくなって初めて、身体感覚として分かるものでした。
終わりに
「FIREは暇で辛い」という声は、自由そのものへの否定ではなく、自由に慣れる途中で出てくる自然な違和感なのだと思います。
僕自身、最初は解放感を存分に味わい、その後で「この時間をどう穏やかに使うか」を考える段階に移り、そして今に至ります。
長く働いてきた人間にとって、時間に縛られず、目標のプレッシャーもない状態は、やはり本質的に心地よいのです。
「FIREは暇で辛い」というのは、自由に慣れるための自然現象であって、だからこそ自分がどんなリズムなら安定するのか、それを時間をかけて確かめられる環境も、また、FIREによって与えられるのだと、感じています。

