「お金という存在を好きか?」というフレーズをみて、少し戸惑いを覚えました。
今日はその違和感について綴ってみたいと思います。
もちろん、お金はとても大切です。ですが、「好きか?」「愛しているか?」と問われると、どうもピンときません。
例えるなら、「空気が好きですか?」、「水を愛していますか?」と尋ねられたときのような感覚です。
どちらも生きていくうえで不可欠な存在ですが、感情の対象として「好き・嫌い」で語るものとは、少し性質が違うように感じます。
お金は空気や水のようになくてはならないものなので、「空気が好きか?」と聞かれても、「え!?」となるような感覚です。
該当記事
この記事は、三田紀房の投資マンガ「インベスターZ」を題材に、経済コラムニストで元日経新聞編集委員の高井宏章が経済の仕組みをイチから解説する連載コラム「インベスターZで学ぶ経済教室」からです。
筆者は、
もし「お金を愛している人はいますか」と聞いたら、どんな反応が返ってくるだろうか。おそらく、よほどの露悪趣味か天邪鬼の人以外、誰も手を挙げないのではないか。 人生、金じゃない。金銭崇拝は忌むべきものだ。お金があっても幸せになれるとは限らない。 同時に、お金抜きで人生は成り立たない。行き過ぎた金銭忌避は弊害が大きい。お金がないだけで人は簡単に不幸になる。
たしかにその通りです。
お金が沢山あるからといって幸せになれるとは限りませんが、お金抜きでは人生は成り立たないものです。
ですが「お金を愛している人はいますか?」となると、FIREをした今は、僕は手を挙げないと思います。
FIREとは「お金の交換」という意思決定である
現役時代、僕にとってお金は「増やすべき目標」でした。
将来の自由を得るためには、ある程度の資産形成は不可欠であり、だからこそ強い関心と執着もありました。確かに「大切なもの」でしたし「増えることが嬉しい=好き」だったとも思います。
ですが、FIREをした時点で、お金の意味は大きく変わりました。
そもそも僕にとってFIREとは、「将来得られるはずだった定年までの給与収入」を自分の意思で手放すことです。
僕はそのFIREがどの程度の経済価値があるかは実際に試算したことがあります。
「定年までのアーリーリタイア期間」を、その期間に得られるであろうお金を失う「機会損失」として計算すると、およそ1000円/時間で「お金→自分の自由」と交換したわけです。
これは実際にお金を支払ったわけではありませんが、60歳以降も5年間は再雇用が保証されていたゆえ、自由を選ぶことは、お金で人生の時間を買ったという感覚ではあります。
この背景には、「お金 < 時間」といった価値を感じていて、お金は時間に交換するほうが自分には得だと感じたのです。
もし「お金を愛している」とか「絶対的に大切なもの」と考えていたなら交換はしなかったでしょう。
なお、この筆者も、
私はお金との付き合い方の要諦は、さじ加減、距離感だと考えている。バランス感覚と言っても良い。
と主張しているので、お金に対する感覚は同じなのかもしれません。
FIRE後のお金は“わらしべ”のような存在
なお、お金があるからといって幸せが保証されるわけではありません。
でも、お金を「意味ある使い方」に変えていくと、そこに確かな喜びや実感が生まれますし、その結果、幸せにつながりやすいと思います。
FIRE後の今、僕にとって「お金で何を得るか?」、「どんな交換をすれば今の自分に最も意味があるか?」と考えることも、楽しい時間です。
「わらしべ長者」のように、手元にあるお金というツールを、時間に換え、体験に換え、学びや健康、豊かな人間関係といった「価値あるもの」にどんどん変換していく、そんな変換プロセスを楽もうとしています。
結局、FIRE前の僕は、「お金を増やすために、お金を大切にしていた」と言えますし、FIRE後は「お金を何かに交換して価値を生むために、お金を大切にしている」となっています。
この違いは大きく、前者が「資産の最大化」が目的ですが、後者は「人生の最適化」が目的になっています。
終わりに
僕は「お金を愛していますか?」と問われても、その質問に違和感を抱きます。
もちろん回答は、「お金を増やすことは嫌いじゃないが好きなでもない」となるでしょう。
厳密には、「お金というツールを使って、自分の健康、人間関係、学びなど、価値あるものへ変換することが”もっと好き”」と答えるでしょう。
自分がお金を「好きか、嫌いか」というより、お金が自分に「どんな価値に交換するのか?」と問い続けている。だから、お金を好き嫌いという範疇で捉えることに違和感があるのです。
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