会社員時代は「役割を演じる人」を多く見かけてきました。
僕も「役割を演じる派」だったので、そうした人の存在や心理状態もわかります。
もちろん、まるで演じない「あるがままの自分で行く派」も否定しません。
「役割を演じる」とは、例えば「豪快なリーダーシップがある部長」とか「仕事の緻密さで定評の係長」を意識して振る舞うのです。
与えられた「役職」を自分の「キャラ」の範囲で頑張って演じるのです。
家庭で「良い妻」や「理解ある旦那」を演じたり、友人関係で「楽しく明るいキャラ」を演じるのも一緒です。
大事なことは、演じることで成長や幸せにつなげることであって、無理をして演じて自分が潰れてしまってはいけません。
今回、「役割を演じること」と「経済的自由」の相関関係を綴りたいと思います。
役割を演じることのメリットとリスク
役割を演じるということは「周囲からの期待」と「あるがままの自分」に「ギャップ」があるわけです。
ギャップは悪いものではありません。
それを乗り越えたいという強い思いで演じ続けるとスキルが向上したり理想のキャラ(人間性)に近づきます。
ところがギャップが大きすぎたり、方向性が違うと苦しいですし、無理に演じ続けると苦悩が生まれます。
演じるのに疲れたら、自分が潰れてしまう前に、どこかの時点で「あるがままの自分を出す」ってことが必要です。
あるがままの自分(素の自分)っていったい何?
でも、いつも思うのです。「あるがままの自分って何?そもそも本当の自分って何?」って。
会社組織では、最初から「あるがままの自分」を全面に押し通すと、快く思われなかったり開き直った印象を与えてしまいます。
家族やクローズな人間関係では、あるがままの自分を出すことが価値あることですが、会社はそうはいきません。
また、役割を演じているうちに、いつのまにか「演じている自分=素の自分」になっていることがあります。
人間は変化していく生き物です。
演じていれば変わっていきますし、変わった結果も「あるがままの自分だ」と受け止めれば良いのです。
自分が変化するさまを自然体で受け入れることが大事で、「あるがままの自分は、いったい何者だ?」といった変なツッコミや拘りは、持つ必要ありません。
いま時点の「あるがままの自分」への向き合い方
ところが若いころは「あるがままの自分は、いったい何者だ?」に拘りがちです。
自分に自信がないの若い時は、そう思うことが自然なのでしょう。
僕が20代の前半の時もそんな状態で、恥ずかしいアホ歴史ですが、「自分はいったい何者だ?」と「自分探しの旅」をしました。
バックパックを背負って世界を貧乏旅行しながら「自分探し」をしたのですが、当然、「自分はいったい何者か」の答えは得られず、真っ黒に日焼けした馬鹿面で帰ってくるだけでしたが。
いまでこそ「自分は何者か」っていう答えは、探すものではなく人生経験で作られるものだ、と答えられます。
「苦しい、辛い、楽しい」などの人生経験を積むからこそ、そこで自分がどう対処、対面したかで自分が作られ、自分を知ることができるのです。
人生経験は鏡みたいなものなので、人生経験を通してしか自分を知ることができません。
鏡を見ずに「自分がどんな顔か?」なんて知る由はないように、人生経験をそっちのけで旅行に出かけたぐらいで自分を知る由はありません。
人生経験は積むほど鏡の解像度も高まり、「俺はやっぱりブス面だったか〜」ってものも見えてきてしまいますが・・・。
成長とは自分が何者かを知る過程そのもの
結局、「役割を演じる自分」がやがて自然に「素の自分」となり、それが「あるがままの自分」へと変化していきます。
例えるなら、自分が生まれ持った遺伝的特性は卵でいう黄身で、自分の経験や環境が作り出す後天的特性は卵の白身部分です。
そうした卵全体が自分なのです。
黄身ばっかりみようと右往左往してもダメで、経験や環境で得る後天的特性の白身部分(変化していく部分)も含め「素の自分の全体像」を見るしかありません。
まあ、黄身探しは、人生の成長という過程において、若い時には必要なステップだったかもしれません。
今もし若い自分にアドバイスするならば、「自分を探すのは時間の無駄。探す暇があったら、もっと好きに自由に生きることに拘った方がいい」と声をかけます。
もちろん、好きに自由に生きる前提として、正しい倫理や健全な向上心があることが必要です。あとは会社などで役割を演じていれば良いのです。
無理に自分探しをする必要はなく、淡々と「演じる自分が楽でいられる」というのが成長の近道です。
経済的自由が素の自分を引き出す手助けをする
「演じる自分が楽でいられる」ために必要なこととは、自分自身の内面の在りようよりも「経済的自由」が大きな役割を果たすと思えます。
経済的自由がありながら仕事を続けていた50代の前半からは、「どうせ演じるならば、楽しく演じよう」「自分らしい好きなキャラで演じよう」と、少し方向性を変えました。
「俳優失格となれば仕事を辞めればよい」という開き直りがあったからだと思います。
結果として、「会社に従順という役割」ではなく、「正しいと思うことを信念をもって発言できるような(自分に素直な)役割」にキャラ変したので、とても自分らしく楽でいられる演じ方でした。
もはや演じている感じはなく、素のままの自分で仕事をしていた状態です。
つまり、前述の「役割を演じる自分」→「素の自分」→「あるがままの自分」という成長の変化というよりは、最初から「役割を演じる自分=素の自分=あるがままの自分」ということです。
役割を演じることすら不要となった感じだったのです。
終わりに
役割を演じたり、キャラを演じるのは、何も自分を偽ることでもなければ、無理をすべきものでもありません。
ただ、素の自分を出すことで周囲の迷惑や軋轢などを生むこともなく、素の自分を出すことが周りに求められる「役割」となるのが、楽な生き方であり、好きに生きる真髄だと思います。
ちょっとFIREしたからといって「好きに生きれる」といったものではなくて、「自分のことを知るだけの人生経験x経済的自由」があってこそ「好きに生きる」ができるようになると思います。
まあ、世のなかには「好きに生きよう」と人の変化を手助けすることでお金儲けをする人も多く、真実を見る目も育てないといけないですよね。
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