世間で、「FIREをしました」と言いながら、猛烈に働いている方を見かけることがあります。
理屈のうえではFIREですが、僕はどうも「これは本当にFIREか?」と感じてしまいます。
FIREの定義からいえば、確固たるFI(経済的自立)を作ってさえいれば、REの形は自由に実現できます。
①働かない、②少し働く、③猛烈に働く。
どのパターンでも、生きていくことはできます。
FIとは選択権の獲得であり、REはその選択権をどう行使するかの話だからです。
なので、会社を早期リタイアしたうえで「好きなことをやっている」と猛烈に働いても(③)、理屈上はFIREとして成立すると言えます。
それでもなお、拭えない違和感が残るので、今日は、その正体を自分なりに整理してみます。
違和感①:動機が上書きされていない
FIREかどうかを、労働時間の多寡で線引きするのは本質的ではありません。
好きなことなら、寝なくてもやっていられますし、周囲からは労働に見えても、本人にとっては趣味や探求かもしれません。
問題は、「何をしているか」ではなく、その動機がFI前から上書きされているかです。
サラリーマン時代には、
・仕事スキル向上=正義
・能力開発=正しいこと
と信じて疑わない価値観がありました。
この発想が取り切れないままFI後を迎えると、
・目的なき能力開発を続けてしまう
・使い道のないスキルを積み上げ続けてしまう
という状態に陥りやすくなります。
これは「働いているからFIREじゃない」のではありません。
FIがあるのに、FI前の価値観で生き続けていることへの違和感です。
経済的には自由でも、精神的には会社員時代の延長線に見えてしまう。だから、この違和感は拭えません。
違和感②:本当に「やめられる」のかが見えない
この違和感①が残っているとき、次の疑問が生まれます。
「その働き方を、本当にやめられるのだろうか?」
FIRE後に猛烈に働く人は、よく「いつでもやめられる」と言います。
FIがある以上、それは理屈としては正しい。ただ、「やめられる」と「やめても平気」は同じではありません。
もし手放した瞬間に、
・張り合いがなくなる
・自分の価値が分からなくなる
・時間の空白に強い不安を覚える
としたら、心理的には「やめられない」状態かもしれません。
この内面的な拘束は、外からは見えません。
だからこそ、猛烈に働く姿を見て「FIREかどうか」が分からなくなるのです。
違和感③:お金との距離感が測れない
さらに判断を難しくするのが、「お金を稼ぐつもりはなかったのに、結果的に稼いでいる」ケースです。
本人は、
・やりたいことをやっているだけ
・お金は目的ではない
と言いますし、それが事実なら、とても健全なFIREの姿にも見えます。
ただ一方で、
・稼げている状態を手放せない
・収入が減ると不安になる
といった感情が混ざると、境界は一気に曖昧になります。
お金に執着しているのか、たまたまお金がついてきているだけなのか、この線も外部からは決して測れません。
終わりに
猛烈に働いている人がFIREかどうか、周囲が線引きする必要はないと思います。
FIREの最大のメリットは、自分を解放し、本当に好きな道に進めることです。
自分自身が問い直し、違和感に気づいたなら必要な軌道修正をすればいい。
本人が、自分の動機や価値観を見極める目を持ったうえでそれを「FIRE」と呼ぶのなら、FIREなのです。
結局、違和感の正体は僕自身が「FIREを肩書きだと思っているから」かもしれません。
なのでFIREを「生き方の選択だ」と捉えれば、こうした違和感は減ります。
こうして僕自身が行きついたのは、「FIで得た自由に対し、いつまでも誠実でありたい」という強い気持ちです。
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