アーリーリタイアから4年が経過した今でも、正月明けに初仕事へ向かうときの、あの独特の気の重さはよく覚えています。
朝の空気が妙に冷たく感じられたり、電車は混んでいるのに静けさがすごかったり、会社では形式的な挨拶に気持ちが追いつかなかったり。
とはいえ、振り返ってみると、正月明けは「ただ辛かった」という記憶だけではありません。
特に、経済的にいつでもリタイアできる状態になった後、その受け止め方は明らかに変わっていました。
今日は、リタイア後の視点から「正月明けの憂鬱の正体」を、感情論ではなく構造として整理してみたいと思います。
リタイア後に「正月明け」を振り返る
リタイアした今、正月明けは単なる暦上の区切りにすぎません。
仕事始めというイベントもなく、生活リズムが大きく切り替わることもありません。
それでも不思議なことに、過去の正月明けの記憶はかなり鮮明です。
「あのかしこまった挨拶が面倒だったな」とか、「この生活にまた戻るのか」といった感覚は、今もはっきり思い出せます。
ただ、それはもはや“嫌な記憶”ではありません。距離を置いて眺められるし、少し客観的な記憶に変わっています。
リタイア後という立場に立ったことで、当時の感情を一段引いた視点で更に整理できるようになったのだと思います。
本当に重かったのは、仕事そのものではなかった
そんな正月明けが辛かった理由を振り返ると、必ずしも仕事の内容そのものではありませんでした。
確かに、形式的な挨拶や正月気分からの切り替えは面倒でした。
しかし、それ以上に重かったのは、次の感覚だったように思います。
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この生活が、いつまで続くのかわからない
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抜け道がない前提で、また一年が始まる
つまり、憂鬱の正体は「正月明け」そのものではなく、無限に続くように感じられる時間構造だったのです。
終わりが見えないものは、それ自体が心理的な負荷になります。
正月明けは、その負荷を象徴的に意識させられるタイミングだったのだと思います。
資産が変えた「捉え方」
サラリーマン生活の後半、いつでもFIREできるだけの資産を持ってから、正月明けの受け止め方は少し変わっていきました。
「あと何回、正月明けの挨拶をするのだろう」、「もしかしたら、あと数回かもしれない」。
そんなことをふと考えた瞬間があります。
その瞬間、正月明けは“耐えるもの”から、“有限の経験”へと捉え方が変わりました。
形式的な対応は相変わらず面倒でしたが、正月の参拝に行きながら「サラリーマンが揃って神頼みとは…」と心の中で少し冷静に眺めつつ、その行事自体をどこか楽しんでいる自分もいました。
正月明けの重さが、明らかに変わっていたのです。
終わりに
無限に繰り返されるものだと思っていた出来事も、「終わりがある」と認識した瞬間、受け止め方は大きく変わります。
それは、初出勤だけではなく、赤ちゃんをあやす大変さを感じているお母さんも、親を介護する大変さも、その瞬間は「辛い」と感じても、その時間は永遠ではありません。
終わりがあると想像できた瞬間、「耐えるもの」から「いましかない経験」と捉えることもできます。
日常の出来事を「無限」から「有限」に書き換えるこの視点は、誰にとっても使える「現実を少し軽くする思考の技法」だと思います。
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