僕は学生時代に様々なアルバイトをしていましたが、今思い返しても強く印象に残っている極端な対比があります。
その対比は、「マクドナルドの厨房」と「一流ホテルのレストランウエイター」です。
当時は10代で右も左も分からない中で、ただ仕事に必死でした。
でも今になって振り返ると、この2つの職場は「人間とはどういう存在か」という仕事の設計思想の前提がまったく異なっていたと気づきます。
今日はこの体験談について綴ります。
マクドナルドに見えた「性悪説的な人間観」
もう40年も前のことですが、マクドナルドの厨房作業はすでにかなり機械化されていました。
ボタンとブザーによって工程が管理され、作業者にサボる余地を与えない仕組みです。
たとえば、パティ担当になると、ブザーが鳴るまでの数十秒の間に12枚のバーガーを裏返すといった、秒単位の正確な動作が求められます。
個人の判断や工夫を挟む余地はなく、誰が作っても同じ品質を保つことが最優先でした。
現場全体に、「人は基本的にサボるものだ」「仕組みで縛って管理すべきものだ」といった、性悪説的な人間観がベースにあるように感じたのです。
もちろん、それには合理性もあります。
誰がやっても同じ品質・同じ速度で提供できることは、全国展開するチェーン店には不可欠だからです。
マクドナルドは社員教育も有名で、決して「社員をこき使う」ような社風ではありませんが、現場オペレーションにおいては、個人の判断や成長に期待せず、人のスキルに依存しない構造になっていると感じました。
高級ホテルの「性善説的な接客思想」
一方、都内のある有名一流ホテルのレストランでウエイターをしたときは、まるで別世界でした。
たとえば「靴下は黒」と決められていたのに、僕が履いていた微妙に濃紺の靴下が「黒じゃない!」と、スーパーバイザーから厳しく叱られました。
ホールから裏手に戻る際も、「手ぶらで戻るな。テーブルに何か下げるものがあれば必ず持って帰れ!」と、表にも裏にも気配りが求められたのです。
そこでは、すべてがマニュアル化されていたわけではありません。むしろ、細かな気配りや判断力は、先輩からの指導と現場経験を通じて身につけていくものでした。
この職場には「人は気づくことができる」、「経験を通じて習得・習熟していく存在である」という、性善説的な人間観があったように思います。
もちろん、人格者ばかりだったわけではなく、変な先輩もいましたが・・。
設計思想の違いが、育て方と求め方を変える
この2つの職場は、どちらも一種の「合理性」のうえに成り立っていた点では共通しています。
ただし、マクドナルドは合理性を「仕組み化・標準化」によって達成し、一流ホテルは「個人の裁量と成長」によって担保していたという明確な違いがありました。
つまり、どちらが正しい・間違っているという話ではなく、前提としている人間観の違いによって、仕事の設計も、指導方法も、現場の文化も大きく変わるということです。
終わりに
今思えば、あの2つの極端なバイト体験で得たものはとても大きかったと感じます。
どちらも「厳しさの質」が異なり、それぞれの論理がありました。
もし、単純作業で機械のように働くことが苦手であれば、マクドナルドは地獄だったでしょうし、逆に「おもてなし」の気配りや理不尽な指導に耐えられなければ、高級ホテルのウエイターバイトはつらいだけだったと思います。
でも僕はどちらも、「へえ、そういうものか。まあそうだろうな」くらいで受け止めてやり過ごしました。
というか、当時は学生だったので、休憩室で女子や年上のお姉さんたちと話すのが楽しみだったのが正直なところです。
今となっては、その休憩室の存在さえ、「働く意欲を維持するための仕掛け」として、会社側が「性悪説」に基づいて導入したのでは??と、思ってしまうあたり、僕の性根はいつのまにか歪んでしまっています・・。
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