先日、3日間で四国は30箇所のお寺参りをしました。
レンタカーで延べ650キロを走破しながら、朝から夕方まで四国88箇所霊場の巡礼をしてきました。
父が残した遺品のなかに「途中までの納経帳や掛け軸」があり、その御朱印を貰いに僕がお遍路を始めたものです。
毎回、お寺での参拝で手を合わせお願いをするわけですが、その時にあることに気が付きました。
それは、リタイア生活に入ってからは仕事関係の祈願にかわり「感謝や決意表明」なる祈願に変わったことです。
今日はこのリタイア後の変化について思うところを綴ります。
神仏への祈願の中身の変化
これまでサラリーマン時代も、年末年始の初詣、旅行先で有名な神社やお寺で祈願することがありました。
そんな現役時代の祈願は、
・健康祈願(家族、大事な人、自分)、
・子供たちの成長祈願、
・亡くなった家族への「安らかにお眠りください」という祈願
・世界が平和でありますようにとの祈願、
のほか、
・「仕事が上手くように」
といったお願いごとでした。
リタイア後も、サラリーマン時代と同じように祈願しています。
ですが唯一の違いは「仕事が上手くいくように」といったことにかわって、
・「無事に仕事も終えて今の健やかで平穏な日々に感謝します」といった感謝、
・「リタイア生活でxxxやっていこうと思う」という決意、
といった、感謝であったり決意に変わりました。
感謝と決意で祈る意味
こうした神仏祈願が、なぜ感謝伝達と決意表面に変化したかの理由を考えてみました。
理由は、サラリーマン時代は「仕事は自分の力が及ばない”運”に左右される」と思うことが多かったからです。
仕事ではちょっとした人との巡り合わせ、時代背景や社会動向で、仕事のチャンスに恵まれることも、タイミングが合わずチャンスすら得られないこともあります。
そんな運に委ねる部分を神頼みして「仕事がうまくいきますように」というのは「チャンスが巡ってきますように」との祈願です。
チャンスすら来ない不運を避けたいという思いです。
ところがリタイア生活では運に左右されるものごとが少なくなります。
時間もあり自分の意思で決めれるものごとばかりなので、基本、チャンスはそこらじゅうにあるわけです。
加えて、結果主義で無くなったことも理由として挙げられます。
つまり「将来の結果」を願うより「今のできる状態」に感謝をするといったスタンスに、FIRE後、変化してきたと感じます。
終わりに
思い返せば受験においても合格祈願はせず「神頼みせずに試験を受けたい」と祈願はしませんでした。
自分でコントロールできるものは神様にお願いせず、100%結果に責任を持ったほうが、どこか納得感がいくからです。
ただ過去に1度だけ、100%、神様にお願いしないとならないことがありました。
「癌を患った弟が生還するように」と願ったことです。
人の命というのは、自分がどうこうできる世界ではありません。
心から「神頼み」をしたのですが・・・。
いまはそんな神頼みするものがないというFIRE生活は、十分に感謝に値するもの、そう思っているのです。
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